以上までのことを踏まえていれば、舞台上の出来事を観るだけでこのコンヴィチュニー演出の意図=コンヴィチュニー氏が『サロメ』の本質だと考えたことが、見えてくるのではないかと思います。
一つ一つのアクションについての考察を書くことはしません(するとしたら千秋楽後)。
ただそれだとやはり、観るだけでわかるとはいえ「1回観ただけでわかる」とは限らないので、僕が稽古を始めて「なるほどそうか!」と思ったことなどを書いてみます。
コンヴィチュニー演出に関するネタバレを含むので、改行します。
(以下30行改行)
・全員が、潜在的にはこのシェルターから出たい気持ちを持っている。
ただしサロメ以外は、その気持ちが摩滅した=諦めたのか、内心の奥底にそれを押し込めて、シェルター内的日常を送っている。
・逆に、外界を知らない唯一の存在と思われるサロメが真っ先に「外に出る意志」を自覚し行動する。ヨハナアンを求める気持ちは、その前駆である。彼は「内側にある外界」である(とサロメには見える)。
・ヨハナアンの言葉は確かに異質で、この上なく正しくて厳しいものであるが、人を(彼が思ったように)動かすことはなかなかない。
稀に人を動かして熱狂させることはあっても、それは言わば一時しのぎであって、「この世界」を根本的に救うものではない。彼は「救世主の前駆者」であって「救世主」ではないからである。
・救いがたくやりきれない日常の繰り返しからの脱出、という点では「輪廻からの解脱」「新世代による超克」「ラヴェルの『ボレロ』の最後の展開」などのことを連想する。
・外界に何があるかは全くわからない。脱出して幸せになるとは限らない。
でも脱出すること自体が「幸せ」であり必然である。
あとテクニカルなこととして:
・「あれ?じゃあさっきのは何だったの?」と思うところが、多分2個所くらいあるのではないかと思います。全体の中でも特に描写が過激なところ。
それは恐らく「劇中人物の悪夢・妄想」である場面です。
照明も変わるからそれとわかる、との説明を受けていますが、小屋入りしてないので実際の効果は出演者にもまだわかりません。
・同様に「あれ?じゃああの小道具は?」と思うところもあると思いますが、それはただの「小道具」であり「おもちゃ」かもしれません。
総じて、極めて論理的ではあるけれど本質的に感性の演出、だと思います。
あのアレがナニを表してるからこのコレはソレのことで──式のパズラー的作りではない(少なくともそれが本質ではない)ので、細部の意味を言語的に読み解くというよりも、それを観て受けた印象をそのまま受け止めたほうが楽しめると思います。
また、同じようなことですが、非常に細かく役作り・心理描写・関係描写を課して具体性・演劇性を前面に出したやり方ではあるものの、それを追求する故に却って象徴性・神話性をも獲得している、と感じます。
例えば僕のやっている「第5のユダヤ人」は一人のユダヤ人であると同時にある種の人物像を代表する象徴的存在かもしれないし、さらには、人でなく何かの「概念」を具象化したもの、と捉えることすらできるかもしれません。
先鋭的に見えて、とてもキャパシティの大きい演出だと思います。
また、これも前に書いたことかもしれませんが、演出家の作家性が前面に押し出されているかに見えて、実際に押し出されているのは演劇性です。
演劇性とはつまり、ここでは、役者と状況が、あるいは役者同士が、鬩ぎ合って紡ぎ出す示現性のことです。
ご興味おありのかた、この機会を逃さず是非ご覧ください。
お問い合わせは僕のほう(←クリックでメールフォームが開きます)までお気軽にどうぞ。
また、二期会『サロメ』の公式サイトはこちらです。
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