解説

2013.06.11

もう一個あった、元ネタの元

資料を読んでて、あ、そうなの?と思わされたんですが、その元ネタの元というのはベン・ジョンソン (Ben Johnson) の『エピシーン または 無口な女』 ("Epicoene; Or, The Silent Woman")。
主人公というかドン・パスクァーレに当たる Morose のキャラがやや違う気もしますが、偽の結婚のプロットは確かに同じ感じですね。
成立年代からすると、これを『マルカントニオ氏』が借りてそれをまた『ドン・パスクァーレ』が借りた、のでしょうか。

ただ、偽の結婚、というもの自体は、コメディア・デラルテほか喜劇によくあるパターンかと思うので、どの程度直接の繋がりがあるのか今後研究したいと思います。が、本番には間に合わないかな(笑)。

また、この『エピシーン または 無口な女』は、その名前からわかる通り R. Straussの『無口な女』 ("Die Schweigsame Frau") の元ネタでもあります。

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その本番ですが……。
二期会WEEK第3夜『ドン・パスクァーレ』は6/19(水)19時~サントリーホールブルーローズにて開演。
お問い合わせ・チケットご用命はこちらのフォームから私まで、またはこちらのリンクから二期会WEEK公式サイト(ページ下方に連絡先があります)にジャンプしてください。
割と間近ですが、まだお取り扱い出来ます。
どうぞよろしくお願いいたします。

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2013.06.05

ドン・パスクァーレとマラテスタの二重唱 Cheti, cheti, immantinente

早口で有名なこの曲、ある意味『ドン・パスクァーレ』というオペラ中で最も有名なナンバーかもしれません。
が、じつは初演(1843年1月・パリ)のときにはこれはこのオペラに含まれてなかったんですってね。私も恥ずかしながら今回初めて知りました。

4ヶ月後の1843年5月、初めてウィーンで上演されたときにドニゼッティが、自分のお蔵入りオペラ "L'ange de Nisida" から引っ張り出して挿入したんだそうです。

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2013.06.01

commedia dell'arte との距離感

commedia dell'arte=コメディア・デラルテはこのように、パターンやお約束事に則ったお芝居です。そして基本的に喜劇(笑劇)です。それぞれの役には個性があるけれども、現代的な意味での「役の自我」のようなものはありません。例えばある役が苦難に遭うとしても、それは筋の運びやシチュエーション設定のためにそんな目に遭っているのであって、その苦難について深く思い悩んだりアイデンティティの危機に陥ったりはしません。現代の我々が知ってか知らずか慣れ親しんでいる、リアリズムの演劇ではないのです。

後の喜劇オペラも、そうしたコメディア・デラルテの素地を受け継いでいます。『ドン・パスクァーレ』という作品にしても、明らかにデラルテ系の内容です。たまに「観ているとドン・パスクァーレが可哀想になってくる」という評や感想を見かけますが、それは送り手か受け手のどちらか(または両方)がリアリズムの眼鏡を通して作品を観ているのでしょう、本来はそうではなく、ドン・パスクァーレの「災難」は軽やかに笑い飛ばされるべきギミックであって、彼自身も心底嘆いたりはしていないし、一緒に泣いてほしいなんて全く思ってないでしょう。

逆に、喜劇オペラはコメディア・デラルテそのものか、というとこれもまた違うのです。デラルテのキャラクターたちはモリエールやゴルドーニなどによって近代的自我を与えられ、また、シェイクスピアやらボーマルシェやら沢山の劇作家に扱われてきました。オペラに採り入れられていったのはその上で(あるいはそれと並行して)のことです。制作年代や形態にもよると思いますが、大なり小なりワンクッション置いて移植された、もしくは要素を使われた、という関係性になります。
端的に言うと多くの喜劇オペラはデラルテが衰退して以降に、つまり近代以降に作られたものです。その作られた時代なりの近代性、リアリズムのようなものが自然に入ってきているはずです。大抵の場合、作品は「コメディア・デラルテを再現しよう」という欲求より「同時代の観客を楽しませよう」という意図から生まれてきているものです。
例えばデラルテ的なキャラクターが出てくるオペラを全くデラルテ的な演出で上演する、というのは、大変興味深い試みですが、数多ある趣向の一つではあっても絶対的な正解ではない、と考えます。

この距離感の問題というのは大きな、興味深い問題です。
演じる側・制作する側としては、歴史的な経緯を勉強すると同時に、そのオペラの原製作者の気持ちと同じく「現在の、いま目の前にいらっしゃるお客様に楽しんでいただく」ことを主眼にするべきなのだろう、と思います。

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2013.05.27

『ドン・パスクァーレ』と『マルカントニオ氏』比較

以前、直接の下書き云々、と書きましたが、具体的な例を1つ。
最も似ているのはTobiaとBettina=MalatestaとNorinaが策の打ち合わせをする場面で、例えば

"Ser Marcantonio"

BETTINA: Siamo intesi. Prendo impegno.
TOBIA:   La tua parte or io t'insegno.
BETTINA: Mi vuoi fiera?... Mi vuoi mesta?...
          deggio piangere, o gridar?
TOBIA:   La tua parte non è questa.
          Stammi un poco ad ascoltar.
          Hai da far la semplicetta.
BETTINA: Posso in questo dar lezione.
TOBIA:   Collo torto... bocca stretta.
BETTINA: Proviam dunque quest'azione.
          Ho vergogna... son zitella...
          serva... grazie... signor sì.
TOBIA:   Brava: brava: mia sorella
          va   benissimo così.
   

"Don Pasquale"

NORINA:    Siamo intesi. Prendo impegno.
MALATESTA: Io la parte ora v'insegno.
NORINA:    Mi volete fiera? Mi volete mesta?
MALATESTA: No, la parte non è questa.
NORINA:    Ho da piangere, o gridare?
MALATESTA: State un poco ad ascoltar.
             Convien far la semplicetta.
NORINA:    Posso in questo dar lezione.
MALATESTA: Collo torto. Bocca stretta.
NORINA:    Or proviam quest'altra lezione.
             Mi vergogno... son zitella...
             grazie... serva... signor sì.
MALATESTA: Brava, brava, bricconcella!
               Va benissimo così.
 

と、こんな感じです。
兄妹か他人かという関係性が敬語のあるなしを変えているくらいで、ほぼ引き写しですね。
他の個所は、変わっているところは全然変えられてたり、付け足されたり削られたりしているので、「大きく下敷きにして、要らないところはばっさり加工して使えるところは頓着せず使う」という作り方をしたのでしょう。

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2013.05.26

『ドン・パスクァーレ』の元ネタの元

更に遡ると、こうした喜劇の源流は、先の項でも名前が出ましたが、コメディア・デラルテというものに求められます。
イタリア語で commedia dell'arte 、正確に音写すると「コンメーディア・デッラルテ」くらいが近いかと思いますが、これは大体16~18世紀に全盛だったイタリア発祥の即興喜劇のジャンル名です。
16~18世紀、というと、オペラの誕生が16世紀末、ということで、喜劇オペラはその成立の頃からこのコメディア・デラルテに大変な影響を受けています。
このジャンルの特徴としては「主要役が仮面を着けている」「確定台本がなく即興に多くの部分を負っている」などがありますが、オペラに残した影響からすると「キャラクターのストックがいくつかあってその組み合わせで芝居が作られる」というのが大きいでしょう。例えば、

パンタローネ: ヴェネツィアの商家の老主人で、大金持ちだがケチ
ドットーレ:  ボローニャの大学出の学者または偽学者で、衒学的で雄弁
ザンニ(下僕): ベルガモその他の地方出身で、間抜けなタイプと利口なタイプがある
カピターノ:  突然乱入して法螺を吹いたり怖がらせたりする、空威張り軍人
女中:     世故に長けてコケティッシュな、若い女またはおばさん
恋人:     真面目に恋をする、男女のペア

こういった類型があります。こうしたキャラたちが、シチュエーションは毎回変わってもいつも登場し、喜劇を作り上げていきます。
シチュエーションは変わってもキャラは同じ、というのは、もし西日本出身でしたら吉本新喜劇を思い起こしてくださると、あれと同じです。どんな設定や筋書でも寛平ちゃんは寛平ちゃん(の持つキャラのうちのどれか)で、未知やすえは毎度お馴染みのギャグをやります。
または全国区なら、能狂言の狂言を思い浮かべていただくといいかもしれません。太郎冠者とか大名とか、よく出てくるキャラに固有名詞は大抵ありませんが、どの狂言でも大きく言うと同じような性格で同じような立場です。
更には、手塚治虫におけるスターシステムとか、シチュエーションの変わり具合に限度がありますがアメリカのシチュエーション・コメディ系のTVドラマとか、そうしたものにも通じるところがあるかも。

『ドン・パスクァーレ』に話を持っていくと、ドン・パスクァーレという役はまさにパンタローネそのままです(ローマ在住ではあるけど)。
マラテスタは、ドットーレ(医師)・マラテスタ、というだけあってドットーレなのですが、賢いほうのザンニの要素が強い気がします。実際、件の『マルカントニオ氏』ではドットーレと呼ばれていません。
ノリーナ&エルネストは恋人役ですね。コメディア・デラルテの筋は「恋人たちがいかに障害を克服して恋を成就させるか」を軸に進むことが多いのですが、それとも合致しますし、恋人のうち女性のほうは若い女か未亡人、というパターンにも当てはまります。。同時に、ノリーナは利発な「女中」役の要素も併せ持っているとも考えられるでしょう。

上表中で触れてないカピターノについては、『ドン・パスクァーレ』には出て来ませんが同じドニゼッティの『愛の妙薬』のベルコーレ役が思い浮かぶでしょう。
また勿論、上表中のもの以外にもコメディア・デラルテのキャラは沢山あります。

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2013.03.24

『ドン・パスクァーレ』の元ネタ

ドニゼッティのオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)の代表作の一つである『ドン・パスクァーレ』、台本はジョヴァンニ・ルッフィーニ作ではありますが、元ネタになったと思われるオペラがあります。アンジェロ・アネッリ台本/ステファノ・パヴェージ作曲の "Ser Marcantonio"(『マルカントニオ氏』)です。
筋自体はいずれも典型的にコメディア・デラルテの系統で「よくある」ものとも言えますが、全く同じ台詞が出て来たりするので、一読、直接の下敷きにしたな、と感じられます。

違いは、というと、後者は前者に比べて

・登場人物数が多い
・筋の展開が緩慢

ということかと思います。読んだ印象としては、初演年代が三十数年古いので当然かもしれませんが、その分「旧型な」感じがします。

登場人物については、数と同時に関係性もやや違っていて、新旧対比すると

Ser Marcantonio(金持ちの老人) - Don Pasquale
Medoro (Marcantonioの甥) - Ernesto
Dorina (Marcantonioの姪) - なし
Lisetta (小間使い) - なし
Pasquino (召使い) - なし

Tobia (周旋者) - Dottor Malatesta
Bettina (Tobiaの妹) - Norina

という具合です。
MedoroとDorinaは兄妹、TobiaとBettinaも(MalatestaとNorinaのように偽りのではなく本当の)兄妹、そして、MedoroとBettina,TobiaとDorinaがそれぞれ恋人同士です。
その他、新作のほうには合唱は召使い&小間使い達と商人達としてだけ登場しますが、旧作だと、Marcantonioの結婚を諫める親戚や友達,結婚式で演奏する音楽家達、も出て来ます。

総じて、人間関係を思い切って整理して筋にスピーディーさを与えた、的確な改作なのではないかと思います。

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2011.02.20

コンヴィチュニーの『サロメ』を観るために: 結尾

二期会『サロメ』もいよいよ、今日が22,25日組のG.P.、明日が23,26日組のそれ、というところまで来ました。
僕は23,26日組なので、今日は相手組の見学。そのG.P.後にTwitterに書いた2ツイートをここに再掲して、シリーズ結尾としておきます。

コンヴィチュニー演出に関する具体的なネタバレはありません。


今日の二期会『サロメ』G.P.前に某関係者(非出演者)が「正直言って昨日まで演出がよくわからなかったが家に帰って ふと〈でもこれはサロメなんだ〉と気付いたら何もかもストンと納得した。考えるより感じたほうがいい」と言っていたがまさにその通り。特殊に見えても、あ くまで正真正銘のサロメ。


そして二期会『サロメ』、初めて舞台での相手組の通しを見て色々思ったわけだが、一番は「あんなことやこんなことをやっていても観終わって残るのは【爽やかさ】」ということ。どうぞお客様、劇場まではあれこれ想像して考えて来られても、幕が開いたら考えすぎずに感じてくだ さい。


それでは公演、どうぞよろしくお願いいたします。
お問い合わせはこちらのメールフォームから僕のほうまでどうぞ。

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2011.02.15

コンヴィチュニーの『サロメ』を観るために: 私見

以上までのことを踏まえていれば、舞台上の出来事を観るだけでこのコンヴィチュニー演出の意図=コンヴィチュニー氏が『サロメ』の本質だと考えたことが、見えてくるのではないかと思います。
一つ一つのアクションについての考察を書くことはしません(するとしたら千秋楽後)。

ただそれだとやはり、観るだけでわかるとはいえ「1回観ただけでわかる」とは限らないので、僕が稽古を始めて「なるほどそうか!」と思ったことなどを書いてみます。

コンヴィチュニー演出に関するネタバレを含むので、改行します。

(以下30行改行)





























・全員が、潜在的にはこのシェルターから出たい気持ちを持っている。
ただしサロメ以外は、その気持ちが摩滅した=諦めたのか、内心の奥底にそれを押し込めて、シェルター内的日常を送っている。

・逆に、外界を知らない唯一の存在と思われるサロメが真っ先に「外に出る意志」を自覚し行動する。ヨハナアンを求める気持ちは、その前駆である。彼は「内側にある外界」である(とサロメには見える)。

・ヨハナアンの言葉は確かに異質で、この上なく正しくて厳しいものであるが、人を(彼が思ったように)動かすことはなかなかない。
稀に人を動かして熱狂させることはあっても、それは言わば一時しのぎであって、「この世界」を根本的に救うものではない。彼は「救世主の前駆者」であって「救世主」ではないからである。

・救いがたくやりきれない日常の繰り返しからの脱出、という点では「輪廻からの解脱」「新世代による超克」「ラヴェルの『ボレロ』の最後の展開」などのことを連想する。

・外界に何があるかは全くわからない。脱出して幸せになるとは限らない。
でも脱出すること自体が「幸せ」であり必然である。


あとテクニカルなこととして:

・「あれ?じゃあさっきのは何だったの?」と思うところが、多分2個所くらいあるのではないかと思います。全体の中でも特に描写が過激なところ。
それは恐らく「劇中人物の悪夢・妄想」である場面です。
照明も変わるからそれとわかる、との説明を受けていますが、小屋入りしてないので実際の効果は出演者にもまだわかりません。

・同様に「あれ?じゃああの小道具は?」と思うところもあると思いますが、それはただの「小道具」であり「おもちゃ」かもしれません。

総じて、極めて論理的ではあるけれど本質的に感性の演出、だと思います。
あのアレがナニを表してるからこのコレはソレのことで──式のパズラー的作りではない(少なくともそれが本質ではない)ので、細部の意味を言語的に読み解くというよりも、それを観て受けた印象をそのまま受け止めたほうが楽しめると思います。

また、同じようなことですが、非常に細かく役作り・心理描写・関係描写を課して具体性・演劇性を前面に出したやり方ではあるものの、それを追求する故に却って象徴性・神話性をも獲得している、と感じます。
例えば僕のやっている「第5のユダヤ人」は一人のユダヤ人であると同時にある種の人物像を代表する象徴的存在かもしれないし、さらには、人でなく何かの「概念」を具象化したもの、と捉えることすらできるかもしれません。

先鋭的に見えて、とてもキャパシティの大きい演出だと思います。
また、これも前に書いたことかもしれませんが、演出家の作家性が前面に押し出されているかに見えて、実際に押し出されているのは演劇性です。
演劇性とはつまり、ここでは、役者と状況が、あるいは役者同士が、鬩ぎ合って紡ぎ出す示現性のことです。

ご興味おありのかた、この機会を逃さず是非ご覧ください。
お問い合わせは僕のほう(←クリックでメールフォームが開きます)までお気軽にどうぞ。

また、二期会『サロメ』の公式サイトはこちらです。

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コンヴィチュニーの『サロメ』を観るために: 展開

ではいよいよ、今回の演出の独自の部分=基本から変更・追加された設定等について。演出家が言明したことと僕の解釈を交えて書きます。
読んでも舞台をスポイルすることのないように、結末についてまでは書きませんが、一切のネタバレを排したいかたは見ないほうがいいかも。

ということで、この項はコンヴィチュニー演出に関するネタバレを含むので改行しておきます。

(以下30行改行)





























時代は、現代以降。恐らく近未来。
場所は、シェルターの中。外の世界がどうなっているかは明示されないが、出入りが不可能。従って登場人物達も(ほぼ)全員、最初から最後まで舞台上に存在する。なお、このシェルターには区画がなく、大きい一部屋。

シェルター内は退廃的雰囲気ではあるが、各キャラクターのグループ分けや身分差は一応維持されており、「社会」を形成している。その社会の特徴は

・酒,ドラッグ,暴力,性的放恣が日常化している
・多数派である男達による少数派(女性)の排除や蔑視、という局面がままある
・外界との交流が、情報レベルでも完全に不可能

など。

以上のような設定は、対外的にはローマの属州の地位に甘んじて身動きが取れない,内部的にも思想・宗教が分裂しつつ行き詰まっている,救世主待望的な気分も一部にあるが実際には(まだ)何も変わっていない──という原設定/歴史上の閉塞的背景を移し替えたものと思われる。

性格に大きな変更・追加・拡張があった登場人物:

・サロメ
 全キャラクター中最年少であり、外の世界を全く知らない。
 人生の全てをこのシェルター内で学んだが、「愛」だけは──それだけは
 シェルター内社会に存在しないので──まだ知らない(演出家・談)。

・ヨハナアン
 井戸に幽閉されてはおらず、他の人物達と同じ場にいる。
 ただし、自己と他者を半遮断するために、常に袋を被って顔(首)を隠している。

・ヘロデ
 酒とドラッグの常習者(それは彼だけではないが)であり、
 それらが効いている 間は陽気で寛容だが、
 切れるや否や破壊的暴君となる。

・ヘロディアスの小姓
 小姓ではなく、コック。男性ではなく女性。
 ナラボートへの気持ちは友情ではなく異性愛だが、
 彼はサロメしか見ていないため、いいように扱われる。

・ナザレ人達
 常に泥酔している。

・カッパドキア人
 物覚えが極度に悪く、例えば兵士にヨハナアンの素性を訊くくだりも
 これまでに (劇が始まる前に)恐らく何度となく繰り返している。
 来訪者であることと併せて、「愚者」的存在。

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コンヴィチュニーの『サロメ』を観るために: 基本・拾遺

作品の構造を単純化するために前項で名前を出さなかったキャラクター達です。
この項もコンヴィチュニー演出に関するネタバレを含みません

・ユダヤ人達
 ユダヤ人と言っても恐らく一般市民ではなく、サドカイ派やファリサイ派の
 保守的宗教指導者。教義(の枝葉末節)の解釈について常に互いに論争
 している。非生産的で、異端や異教に対して不寛容。
 ヨハナアンを預言者と認めておらず、イエスも救世主と信じていない。
 だが自分たちの手でヨハナアンの処遇を定めたいので、その身柄の返還を
 求めている。

・ナザレ人達
 イエス教団の信者と思われる、イエスの同郷者。
 イエスをメシアと信じ、ヨハナアンの言う「世の救済者」は彼だとする。
 ただ信じる根拠が、ヨハナアンの言説のように形而上的なものではなく、
 水をワインに変えた,病を癒した等の身近で具体的な奇跡譚である。

・カッパドキア人
 領外からの来訪者。ヨハナアンのことを知らない。

・ナラボート
 ヨハナアンを見張る兵士達の隊長。若いシリア人。サロメに憧れる。
 サロメの要求とヘロデの命令の板挟みになり、自殺する。

・兵士達
 その部下。
 細かく言うと2人出てくるうちの「1」はヨハナアンに同情的、「2」はその逆。
 ただし2人とも、ヨハナアンの言説自体は理解できない。

・ヘロディアスの小姓
 ナラボートの友人。
 サロメへの思慕を顕わにするナラボートを心配し、不吉を感じる。

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